人工知能に淘汰される仕事、、、を考えるには

最近、人工知能関連の書籍・記事読んでいる。と、いろんな角度から評論されているけども、概ね論点は以下のように思う。

  • 人工知能とは何か(弱いAI、強いAI、チューリングテストなど)
  • シンギュラリティ(人工知能が人間を超え)はいつ来るのか、その時人間の生活はどう変わるか
  • 人工知能は人間にとって前科悪か
  • Deep Learningとは何か、何が以前より優れているのか、何ができるようになったか

そして、一番目にする論点が以下。

  • 人工知能によってなくなる仕事、なくならない仕事

この点については、記事等を読んでいると、結局のところ人と人工知能での差を明示しないと議論できないのでは?というのことを思う。

人と人工知能の主たる差は何か。どのような作業が得意でどのような作業が苦手なのか。そして、どのような職業が得意でどのような職業が得意ななのか。こういった思考のアプローチが必要だと思う。

具体的な予測(どの職業が残って、どの職業が消える)を立てているものが多いけれども、これは人工知能が得意そう、苦手そう、っていうのを感覚で判断していて、結構判断がブレているように思う。人と人工知能の差は何なのか、そこを明確にしないと。

では、私が思う人と人工知能の「差」は何か。大きくは以下2つだと思う。

  1. “人”ではないこと
  2. 常識を持たないこと

一つ目について。それが人ではないということを認識することで発生する差、人が人工知能に感じる心理的な壁。

もう少し具体的に言えば、人はそれが人でないとわかると不安を覚えたり、その仕事を任せたくないと考えるように思う。

例えば、医者、電車の運転手などを人工知能に任せられるかと聞いたら、多くの人は、程度の差はあれ、不安を覚えるのではないかと思う。人工知能に命を預けることに不安を覚えるので。

また、人工知能が作った芸術品に感動できるか。これも同じで、いかに作品が優れていたとしても、人工知能が作ったと分かれば作品から感じる感動は嘘のように感じると思う。

人工知能に対して感じる心理的な壁。これが一つ大きな人との差だと思う。

ただ、これは時間が解決することだろうと思う。人工知能が運転する自動車はまだまだ不安視されがちだけど、世の中に出回って、しばらく(1,2年かなと思う)すればそれが当然に思うようになり不安視する人はほとんどいなくなるだろうと思う。

二つ目について。人が当然として持ち合わせている感覚を人工知能が持っていない(持てない)ことによる差。

例えば、猫を見たときに、ふさふさした毛、ちょこまかと動く様子、愛くるしい表情などを人は想像する。こういった連想はどこから来るのかといえば、人が人生の中で、三次元空間の中で多くの人・モノとインタラクションする中で学んできたことで、これを人工知能が獲得するのはまだまだ時間がかかるので、この点はまだまだ人と人工知能の差として残ると思っている。

なぜ時間がかかると思うのかというと、人工知能が知能を獲得しやすい分野は、大量かつ電子化された(できる)データが存在する分野で、画像認識なんかはWeb上に大量の画像データがあるために人工知能にとって知識を得やすい(学習しやすい)が、人が人生をかけて獲得してきた情報はそもそも電子データとしてなく、これを学ぼうとしたら、人間と同じ2足歩行し、五感を持つロボットが10年とか実世界で生活しないと学習できないはずだから。

こういった意味で、具体的に言えば、翻訳家はまだまだなくならないと思う。実用的な翻訳ソフトは、現在でも巷にあふれており、多くの翻訳作業は軽減していると思うが、言語の理解というのは、常識によって補間されながら理解される(言外の意味を理解する、行間を読み取る必要がある)もので、それがわからない人工知能には正確な翻訳は無理だろうと思う。

上記の2つの差に基づいてどの職業が残る、残らないというのを具体的に考えるのは面倒なのでしないが、大局的に言えば、弱いAI、強いAIという分類を用いれば、当分(あと30年位)は弱いAIしかできないであろうから、人がAIをうまく使いながら生産性を上げたり、新しいことをしていくんではないかと思う。

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